マツワルで本の宣伝2
「マツワルで本の宣伝」 の続き。
松沢呉一氏のメールマガジン「マッツ・ザ・ワールド」の読者コーナー的な「まつわる便り」に本の宣伝を書いて送ったところ、松沢氏からコメントをいただいたので、それを転載したのが前回。そのメールに対しての返事が次の内容になる。
(前略)
サイトの内容として誤解を与えかねないところがありました。>□リンク先を見ましたが、章扉が4色なんですね。豪華。
> http://shin-shuk.com/articles/2008/05/16/rainy-day-search/これなんですが、扉がカラーなのは4章だけです。というか4章は12ページオールカラーで他の章は全部モノクロです。写真だけ見ると確かに誤解を与えそうなのでサイトも少し手直しするつもりです。
「買いようがない」はヘンな話ですが、かなり納得です。本自体のキャッチーな説明がないし、キーワードみたいなものもない。
これについては読者の一人がサラリといいことを言ってくれていてmixiのタコシェコミュで使わせてもらったのですが、
「『ホームレス中学生』よりずっと救いがない感じ。『火垂るの墓』とか『嫌われ松子』の仲間」
しかしそれもそんなに強い引きにはなっていないと思います。そういう内容でも語り口はお笑いなので、そのへんがうまくアピールできるといいのですが、それにはやっぱりブログとかmixi日記とかで宣伝というのしかないでしょうね。紳士淑女舎サイトでも著者のページを(場所はとってあるので)もっと充実させたいところです。まあありがちな話なのですが、著者はお話で言う「逆」の考え方をしていて本が出たら自サイトを閉鎖してしまいました。それだけならまあちょっとヘンなやつくらいなのですが、mixiでも「本を買ってないやつのマイミクは切る」と言ってただでさえ少ないマイミクを切り、なおかつ日記もマイミクのみ公開にしてしまいました。なんだか分かりませんが私もマイミクを切られました。まあ私は確かに本は買ってないですが、なんかムカつく。本の中にもピアノを燃やした話が出てくるくらいで、著者の手元にある本を焼き払うのではないかと思うと(著者のところに本の在庫の大半を倉庫代タダで置いている)、下手に強いことは言えません。
私の意見は松沢さんと近くて、ブログなりmixi日記なりの読者を増やすのが販促になるのではないかと思っているのですが、著者は本を売る気はあんまりなくて、私が損すると面白いくらいに思っているんじゃないでしょうか。著者がこんな妨害みたいなことをするとは全く予想外である意味面白いのですが、まあお話の通り絶版にはならないので時間をかけて宣伝して行こうとは思っております。
ひとまずはいろいろご助言いただいて大変参考になりました。ありがとうございます。
これにも松沢氏はコメントをつけて下さったので、以下転載する(了解済み)。
□これを読んで初めて私は著者に興味を抱きました。「買わないヤツとは縁を切る」と言いたくなる気持ちは理解できます。
「オレも知り合いだからと言って本までは買わないことはよくあるよな」「人としてつきあってくれているだけで嬉しいよな」といった考えが一方にあるために、意識の表面に出ないで済んでいるだけで、同様の衝動は確実にどこかにあります。
ある条件のもとでは、こういう感情が表面に出てくることがあって、読者からの「ファンです」なんてメールが届くと、「だったら、マツワルを購読しろよ」と思ったりします。この場合は「そんなこと言っても1万円は高いよな」と思うことで自分自身納得するわけですが、面倒な相談事まで書かれていると、さすがにはっきりそう思います。
それを堂々と表明して、よしだ(43)さんにまで「憎しみ」を向けてしまうのは、それだけ衝動が強いってことかもしれないですし、そうすることで自分が損をすることの計算ができない人なのかもしれないですが、彼のような人が、その感情をうまく表現できたら、他にないものが書けそうです。
ひとつ間違えると、自分を認めない世界への憎悪は無差別殺人に向かいそうですけどね。
そうだったのか。作品を作って知り合いが買わないと縁を切りたくなる衝動が起こるのか。などと書いてみたが、私も本を作ったのに買ってくれない知り合いとは縁切りたくはなる。しかしまあそういう人脈とかコネとかってのをなるべく広げないようなやり方をなるべくここまで探って来たとも言えるので、知り合いが本買ってくれなくても気にしないようにしようとはしている。なぜそうするかというと知り合いが自分の興味のないものを作ったり、自分の興味のない催しをしたりしたときに、義理で買ったり行ったりしたくないというのが強いので、それと同じに人が考えても認めないとバランス取れないため。
ひとつには相互依存ってのはラクな場面もあるが、自分も他人に施さなければならないところがあって面倒くさいからである。誰がどれだけよくしてくれたなんてのを全部記録なり記憶なりして、機会があるごとにそれを少しずつ返却して、常に施しと施されのバランスが取れるようにし、さらに施しと施されの全体量はなるべく多くする。そのことが人との交流を増やすことで、生活して行くことなのだという考えもあろうが、それはある種馴れ合いの中で過ごしているだけという見方も出来る。
つまりは個人個人が独立した存在になっていないから相互に馴れ合いが必要なだけのようにも感じるし、そういう方向を進めて行くことは、自分の仲間を最優先してその他の人を軽く見ることになりかねない。歌の文句などで「おまえを守る」みたいに唱えるものがあり、言われた方は一時的に舞い上がってうっとりしたりするのかもしれないが、まあ取りようによっては「他のやつは倒す」、「知り合いでないやつはどうなろうと知らない」と言う内容と言えないこともなく、それはそれで人類愛の観点からどうよと思ったりもする。
友人付き合いも人類愛もバランスよくということだろうが、私はどっちかというと友人付き合いをあまり重視しない、友達甲斐のあんまりない人間かもしれない。自分では比較的義理がたいために義理をあまり獲得しないように気をつけているみたいな感じがあるのだが。
本の話とあんまり関係なくなったが、自分のメールの内容について思ったことは「少し面白く書こうとし過ぎたかも」ということであった。また「今回出したメールのような著者の奇異なひととなりを説明するような文章が本の宣伝につながって行くのかもしれない」とも思ったが、「ここで興味を持った松沢氏が特殊なのかも」とも思った。
あと1回「まつわる便り」のやりとりがあるのでそれを次回に転載する。
Posted by shoin45 on Jul 09, 2008
押切もえとRainy Day
マツワルで本の宣伝3
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